マミヤは第二次世界大戦前からの老舗カメラメーカーであり、一眼レフの開発も早かった。1955年には一眼レフのプロトタイプを発表して注目を集めたが、生産化は遅れ、1961年のPRISMAT / PRISMAT NPからになる。
これはMAMIYA PRISMAT NP (1961年)日本国内向けモデル。これに先行して発売していたPRISMATは輸出用モデルということだが、詳しくは不明。
このカメラ用の標準レンズMAMIYA-SEKOR 58㎜ F1.7が今回のテーマになる。
製造はマミヤ光機の子会社だった世田谷光機(1950‐1963)製と思われる。世田谷区新町に工場があり1964年まで稼働していた。SEKORのブランド名は会社名からとった「世光る」だ。たぶん。
問題は同じレンズが、YASHICA PENTAMATIC II(1961)の標準レンズとしても使われていることである。当時は一眼レフの黎明期であり、生産設備の整備中でもあったため、世田谷光機に生産委託したのだろう。両社で同年の発売となった。気になるのはレンズ設計はどこか、ということである。
当時マミヤは主力の中判カメラの展開中であり、35㎜フィルムのレンズ固定レンジファインダーカメラはレンズの外注もしていた。(1961年製マミヤ ルビー)
一方のヤシカは富岡光学とズノー2社がレンズ設計をしていた。(1960年製ヤシカ リンクス1000)
このなかで、自動絞りの一眼レフ用レンズの設計経験があるのはズノーだけである。ズノーは1961年1月1日に(取引先であるアルコとネオカ2社の倒産の影響を受けて)連鎖倒産し、ヤシカに吸収された。
設計したのはそれよりも前の時期だと思われる。果たして、この58㎜はどこが設計したのだろうか。
さて、レンズは当時一般的だったエグザクタマウントで、独自機構で(半)自動絞りを実現している。
このレンズをデジカメで撮影するのに必要なマウントアダプターは自作してヘリコイド付きとした。実はこのレンズ、ヘリコイドグリスが劣化してフォーカスリングが重くなっているので、ヘリコイドアダプターが必要だった。
どんな写りなのか、撮影してみよう。
上がf1.7開放。中心部はよく写っているが、周辺は像面湾曲だろうか。
下は少し絞ってf2.8、隅までだいぶシャープになる。
レンズの個性を見たいので、以下開放で撮ってみる。
さてこの最初の一眼レフ用のマミヤ・セコール58mm f1.7 フォーカス面の描写は良好ですが、骨太な描写。コントラストが高く、黒は潰れ気味、背景は暴れ気味です。さて設計はどこのメーカーでしょうか。
レンジファインダー用のマミヤ・セコールは、シャキッとした高コントラストですが、画面全体の均質さも特徴だと思っています。ズノーの特徴は背景ボケの美しさ。均質で暴れず、フレアーで溶かしたボケ味が魅力的です。
骨太で暴れん坊のこのレンズ、設計したのは、どうもこの2つのメーカーではない気がしています。似ているのはこのレンズ(いいかげんな推測)な気がするのですがどうなんでしょうか。
暴れ気味のこのレンズですが、対象に近づくと安定しボケも綺麗にとろけます。やんちゃに見えるけど近づくと付き合いやすい、みたいな感じで、写真にアクセントを加えたいときには良いのではないでしょうか。
追記
暴れ気味でコントラストの強い描写は、メリハリの付きにくい曇天の桜のアクセントになると思い、撮影してみました。
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